最近思う所あってロボット物の小説や映画を改めて集中的に観なおしている。
ASIMO効果?で一時期ちょっとだけ盛り上がった国内の二足歩行ロボットのフィーバーが沈静化し、ロボットという言葉自体が最近かなり地味目。いや、どっちかというと時代遅れ的印象さえあるのかも。
しかし現状はむしろサイバーダインのパワーアシストスーツだとか、もう少し砕けて富士重工のアイサイト技術のように、ロボットに代表されていた自律制御の技術がそれぞれの分野で細分化され普及が進んでいる状態で、もうそれほど騒ぐほどのものではなくなったというのが正しいか。
一方で、アマチュアロボット愛好者の登竜門だったはずのロボコンやマイクロマウスなど、トッププレーヤーの技量と興味が先鋭化(高度化)し過ぎて初心者に敷居が高すぎ、同時に一般人の興味のレベルから大きく乖離してきた点が個人的にはもっとも問題だと思っている。
でも、この事を関係者に問題提起しても、(彼ら自身が理系で興味が技術方向に偏っているせいか)どうも「何も知らない素人が騒いでいる」程度の認識。まともに捉えられていないのかバカにされているのか、とにかく非常に反応が鈍い。
僕がこの事を説明する時はよく野球やサッカーに例えるのだけど、ある物事を社会的に認知させ、普及を目指すためには、子供から老人世代まで、それが社会の各世代いずれにとってもリアルな(身近な)距離感に常に近くにあって、たまたま興味を持った人が気軽に参入できる状況が整備されている事が大事だと思う。
例えばこれが野球だと、少年野球、リトル、高校野球、プロ、職場チームやシルバー世代まで、個人でも参加を希望すればどこかが受け入れてくれる土壌が整っている。
後からスタートしたサッカーのコミュニティも同様で、幼稚園サッカーから頂点はJリーグ、そして海外のクラブチームまで、上を目指せばどこまでも高みを目指せると同時に、趣味でちょっとかじる程度でも違和感なく溶け込めるチームが必ずどこかにある。しかもお試しであれば着の身着のままでも参加でき、それほどコストをかける必要もない。
だが、ロボットのコミュニティにはその辺の敷居の低さというか広がりを重視する傾向がまだまだ弱く、加えてちょっとがんばろうと思うとそれだけでえらくコストがかかる。
確かに、経験レベルの低い初心者や、そもそもそこまでガッツリはまるつもりのない趣味的参加者は道を極める者からすると目障りであるのかも知れない。でも、そういう「ちょっとカジッた程度」の初心者、アマチュア層がいずれ熱心なエバンジェリストとなって、物事は一般社会に広く浸透していくものだと僕は思うのだ。
お金の面もしかり。愛好者が増えマーケットニーズが増えれば、そこにビジネスが生まれる。
でも、なぜか彼らはむしろそういった取り組みに背を向けているようにさえ思える。
そんなわけで、僕にとっては、クリエーターが描く「ロボット」の概念は、それがエンターテーメントを志向しているほど参考になる。ハリウッド映画はもちろんとして、やはり日本人としてはアニメ作家の持つ「ロボット」のイメージを理解したいと強く思う。
前置きが長くなったが、「イブの時間」はそういった意味でものすごく参考になった。ストーリーももちろん面白かったのだけど、登場人物のロボットに対する距離の置き方は、ハリウッド映画とまた違っていていかにも日本的でいろいろ考えた。